リストラ時代と忌野清志郎…RCサクセションの労働哀歌が胸に染みる
RCサクセションがデビュー50周年を迎えた。記念盤のリリースや特別番組の告知などで、名前を見聞きする機会が多くなってうれしい。このところ、久しぶりに棚からCDを引っ張り出して聴いている。
フォークからエレキに変わった時期がとくに好き。アルバムなら「ラプソディー」「BLUE」「PLEASE」の辺り。シングルなら「トランジスタ・ラジオ」「雨上がりの夜空」に敵うものはない。
忌野清志郎が坂本龍一と組んでリリースした「い・け・な・い ルージュマジック」が大ヒットする前からのファンで、ブログの中で時々使うオイラの一人称はもちろん清志郎の影響だ。
後年、清志郎のユーモラスで可愛いらしい人柄がクローズアップされ、気づいたら国民的な人気者となっていたが、テレビなどに出始めてからもしばらくは周囲に同志がほとんど存在せず、寂しい思いをしたものだ。
トシちゃん、聖子らを聴いてたアイドルファンは置いておくとして、邦楽(J-POP)ファンもサザン、オフコース、永ちゃん、千春などを熱心に聴いており、派手なメイクをしたRCをコミックバンドのように扱い、見下していたように記憶している。
「い・け・な・い…」以降、アルバム「BEAT POPS」が大ヒット。一時発売中止となった社会派アルバム「カバーズ」で、オリコン1位を獲得。覆面バンド「タイマーズ」の「デイドリーム・ビリーバー」はCM曲となり、清志郎の唯一無二の個性的なボーカルスタイルは全国に広く知れ渡った。
ドラマ出演には違和感もあった
音楽、ステージで見せる清志郎の奇抜さと過激さは相変わらずだったが、絵や本を愛する文科系少年(あえて青年とは書かない)としての一面も注目を集め、やがてドラマ、バラエティーにまで出演するようになった。
ネットのない当時は、テレビこそ絶対的メディアで、音楽番組以外に出演する清志郎を見るのは、違和感があり好ましく感じず、変な気分だったことを覚えている。
いまあらためてRCサクセションを聴く。グッときたのは意外にも"労働哀歌"だった。とくにフォークをエレキに持ち替えた頃の作品が格別にいい。「ボスしけてるぜ」「いい事ばかりはありゃしない」とサラリーマンの不満を歌っていた。
給料の不満から上司と対立、代わり映えのしない毎日に辟易とした描写が延々と続き、あきらめや苛立ちといった感情がじわじわと迫ってくる。当時の清志郎は眉も薄く、スチール写真での見た目は凶暴そのもの。申し訳ないが、その意味での迫力は後年とは段違いだった。
大量リストラ時代…清志郎なら?
いい大学に行って大企業に入ることを成功と信じて疑わない、いやな野郎だった自分には、大好きなRCの中でも"労働哀歌"だけはしっくりこなかった。本当に、本当にお子ちゃまだったと思う。
やがて自分が退職勧奨を受け、早期退職を申請した今になって、それらの歌が胸に染み入ってきた。五臓六腑に染み渡る。そして、早期退職を選択したことは「間違っていなかった」との確信を得ることもできた。
もっとも清志郎はその後、真逆の"労働讃歌"ともいえる「パパのうた」をヒットさせるわけだが、そこは気づかないふりでスルー笑。
清志郎が生きていたら、大量リストラが当たり前になった今の時代にどんな"労働歌"を作ったんだろ。たくさん元気もらえただろうな。あらためて、合掌。
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